『“文学少女”と飢え渇く幽霊』 野村美月

”文学少女”と飢え渇く幽霊 (ファミ通文庫)

”文学少女”と飢え渇く幽霊 (ファミ通文庫)

おまえは、俺にその身を、その声を、その髪を、その唇を、その魂を、その全存在を捧げ、償いをするのだ――!

物語を「食べちゃいたいくらい」愛している“文学少女”天野遠子が部長を務める文芸部に、不可解な手紙が送られてくるという事件が発生した。文面には「憎い」「幽霊が」という文字や、謎の数列。それらを書き連ねたばらばらの紙片が、夜な夜な文芸部の「恋の相談ポスト」に投げ込まれるのだ。
この行為の何をどう勘違いしたか「文芸部への挑戦状」と受け取った天野遠子は、唐突に調査を開始。文芸部唯一の部員にして彼女のおやつ専属作家・井上心葉を引きつれ、犯人捜索へと乗り出すことになった。
しかし、彼らが真夜中の学校で見つけた「犯人」。それは、自分はもう死んでいると呟く、幽霊のように儚い少女だった…。


シリーズ第2弾です。
下敷きにした元々の作品がすでにそうなのですが、今回は前作と比べ、人間同士や事件の関係性がかなり複雑に絡み合っており、一読しただけでは話を追いきれず、何度も何度同じページを読み直しつつ読み進めました。あとがきでも書いてあるように、この作品は非常に難産だったそうなのですが、苦労して書かれたこともあって、重く暗く、しかし非常に読み応えのある一冊に仕上がっていると思います。


以下ネタバレ。真剣に書きすぎてめちゃめちゃ臭いです。巻頭カラー見開き2Pでギップルが泣き叫びそうな勢いです。

愛の反対語は無関心というのが一般的らしいですが、自分はとてもそうは思えません。
愛の反対語は、憎しみだと思います。
自分は憎しみが嫌いです。この世で最も嫌悪している感情と言っていいです。人に憎まれるのも嫌いだし、また自分自身が人を憎むことも嫌いです。
実際、人を嫌いになったり、見損なったり、呆れたり、負の感情を向けることはたびたびありますが、「憎む」なんてことはめったにありません。
まぁ、ただ単に、愛だの憎むだのといった次元に至るまで、人と深く縁を持つ経験をしていないだけ、という話かもしれませんが。
だから、自分はこの登場人物たちの関係は、気分が悪くて仕方がありませんでした。
憎むことが愛することにつながる、という感情。
理解はできているつもりですが、共感をすることはできませんでした。


自分は俗に言う「ヤンデレ」というキャラクタ要素も、純粋に喜ぶことはできません。
憎むほど殺すほどに愛する、という倒錯した関係を美しい、と思うことは出来るし、ヤンデレをギャグのように扱ったキャラク*1を楽しんだりすることは出来ます。
ですが、どうしても肯定することはできません。
そんなに愛しているなら、素直に自分の気持ちを相手に吐露すればいいのに、と思ってしまいます。
愛を直接伝えないうちに捻じ曲がって捻じ曲がって、あげくに負の感情である「憎しみ」に転換して相手にぶつけてしまうなんて…本末転倒もいいところだと思ってしまいます。


だから、哀しかった。終盤の礼拝堂のシーンなんて、悔しくて哀しくて仕方がなかった。
そして、自分が物語を読むだけで何も出来ない、それこそ“文学少女”と全く同じ立場になっていることに気づきました。


自分は憎しみが嫌いです。これまで生きていくうちに、自然と憎しみをいう感情を遠ざけながら過ごしてきました。愛を憎しみに変えて相手にぶつけるなんて正気の沙汰とは思えないし、実に非生産的で誰も幸せにならない、不毛な行いだと思います。
けれど、きっとそんな風にしか愛を出せない人もいるのだろうな、と思います。
こんなとき、つくづく人間は、色々進みすぎて逆に損をしている泥沼な生き物だな、と考えたりもします。


この作品は『嵐が丘』という小説を下敷きに執筆されています。
自分は、その作品を読みたくはありません。
しかし、いつかきっと読んでしまうと思います。
また、この『飢え渇く幽霊』も、きっと何度も読み返すことになるでしょう。
憎しみがこの上なく嫌いなのに、いつのまにかそれを虚構と言えど求めてしまう、そんな矛盾した感情を持つ辺り、自分も損をしている泥沼な生き物だな、と思ったりしました。

*1:絶望先生の千里とか